その歌が誕生したのは平和をテーマにした音楽祭が、新しく始まったことがきっかけだった。 幼少時に父が徴兵された美空ひばりは、四人の幼子を抱えた母と一緒に戦火の中を生き延びてきた。 横浜大空襲では避難した防空壕で、生き地獄のような恐怖も体験している。 ”世界に平和を発信したい”という広島テレビ放送の企画に賛同した美空ひばりは、音楽祭への出演を快諾して課題となった新曲に取り組んだ。 一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く 一本の鉛筆と一枚の紙があれば、たった一人でも反戦を訴えることができる。 この真っ直ぐなメッセージ・ソングを作詞したのは脚本家の松山善三、音楽祭の総合演出を引き受けた映画監督である。 そして黒澤明監督の映画音楽で知られる音楽家、佐藤勝がメロディとアレンジを担当して新しい歌が完成した。 1974年8月9日、美空ひばりは第一回広島平和音楽祭で初めて、この歌を人前で歌うことになった。 その日も暑い日だったが、会場の広島体育館は冷房がなかった。 出番を待つための場所、体育館の用具置き場のようなスペースには氷柱が一本立っているだけだ。 そこで早くから出番を待っていた美空ひばりを気遣って、広島テレビのディレクターが声をかけた。 「ここは暑いですから、冷房のある別棟の楽屋でお待ちください」 「あの時、広島の人たちは、もっと熱かったのでしょうね」 誰に言うでもなく、そうつぶやいたのは美空ひばりだった。 ここから美空ひばりは数多い持ち歌のなかでも、「一本の鉛筆」を大切な曲の上位に入れていく。 そして10月1日にはシングル盤を発売したのである。 美空ひばりが再び広島平和音楽祭に出演したのは、それから14年後の1988年夏のことだ。 その年まで大腿骨頭壊死(えし)と肝臓病で入退院を繰り返した美空ひばりは、再起は絶望的と伝えられていたにもかかわらず、4月11日に開かれた東京ドームの「不死鳥コンサート」を成功させて見事に復活をアピールした。 だが東京ドーム公演後を境に体調はひどく悪化し、一人で歩くことさえ困難な状態になった。 その日も会場となった広島サンプラザの楽屋にベッドを運び込み、点滴を打ったままずっと横になっていた。 ところがひとたび舞台に上がって観客の前に立つと、笑顔を絶やさずに「一本の鉛筆」を歌い切っ
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